命を懸けた二人の島守と沖縄の人々の物語
劇場用映画 島守の塔
- 萩原聖人
- 村上淳
- 吉岡里帆
- 監督 五十嵐匠
- 脚本 柏田道夫・五十嵐匠
©︎ 2021 映画「島守の塔」製作委員会
次世代に語り継ぎたい「島守」
新元号が令和に変わり、昭和、平成、
令和と時が進んでいます。
第2次世界大戦では、日本における唯一の地上戦「沖縄戦」をはじめ、
長崎、広島での原爆投下、東京や各地方都市においての空爆で300万人以上もの尊い命を失いました。
昭和、平成の時代を歩んでこられた上皇陛下は、天皇として最後となった平成30年12月の誕生日の記者会見で
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と涙で声を震わせて平成を振り返り、
昭和の大戦を踏まえた平和への思い、そして沖縄がたどった苦難の歴史についても言及されました。
長期の地上戦が決行された激戦地沖縄の摩文仁の丘。ここは軍事召集で沖縄及び南方で亡くなった方の慰霊碑が立っています。
この場所は、沖縄の心「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)と訴え消息を断った、当時の沖縄県知事・島田叡(兵庫県出身)と
沖縄県警察部長・荒井退造(栃木県出身)の終焉の地でもあります。
摩文仁の丘の中央には、沖縄県職員の戦没者を慰霊する「島守(しまもり)の塔」があり、その奥には、島田と荒井の連名の
「終焉の地」の碑があります。隣には、栃木県の慰霊塔「栃木の塔」その背中合わせに兵庫県の慰霊塔「のじぎくの塔」が立っています。
これらの3つの塔の配置は、「生きることの尊さ」を後世に伝えてほしいと、この地で生涯を閉じた島田と荒井の信念を継承し、
3県の慰霊塔が寄り沿って立っています。
沖縄戦では、家族や友人、そして官僚や学徒兵などそれぞれの立場での隠されたドラマが多くあったことでしょう。映画「島守の塔」は
第2次世界大戦末期、長期の地上戦が決行された地沖縄を舞台に、県民の命を必死に守る戦場の知事と1人の警察部長の
それぞれの苦悩や葛藤などの生き様を通して「人間の命の尊さ」を描く映画を企画しました。
「命(ぬち)どぅ宝」の言葉が、戦争の記憶をいつまでも風化させず「人間としての命の尊さ」を
発信できるものと確信しています。
また、主な登場人物の出身地(沖縄県、兵庫県、栃木県)の地方新聞社が連携を図り、単にこの映画製作の支援・協力をするだけで
なく、3県のトライアングルによる「平和交流事業」の基盤を構築し、3県のみならず全国のメディアに呼びかけ、
大きな平和事業に発展させていきます。
過酷な爪痕が残る沖縄戦から「命の尊さと平和」を発信するのは、昭和、平成、令和と「平和」を伝えてきた新聞社の使命でもあり、
令和を生きる次世代にしっかりと伝え継承を促せることができる映画事業にいたします。
平成と同様に「平和」を受け継ぐ令和になってもらいたいと切に願います。

「島守の塔」
沖縄県糸満市の摩文仁の丘 平和祈念公園内にある、沖縄戦で殉職した島田叡知事(兵庫県出身)と荒井退造警察部長(栃木県出身)をはじめ、県民の安全確保に挺身した戦没県職員469柱を祀る慰霊塔。1951年(昭和26年)に旧県庁の生存者三百数十人や県民を中心とした浄財の寄付により建立された。摩文仁の丘には、陸軍の司令部壕の他にいくつかの壕があり、そのうち軍医部壕から島田叡知事と荒井退造警察部長は2人で外に出てゆき、消息を断った。そのため軍医部壕が2人の終焉の地とされており、「島守の塔」はその壕の前に建立されている。さらにその後ろに、島田知事と荒井警察部長の終焉の地を示す石碑が配置されている。
CASTキャスト
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島田叡役
萩原 聖人
プロフィール
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荒井退造役
村上 淳
プロフィール
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比嘉凛役
吉岡 里帆
プロフィール
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比嘉凛役(現代)
香川 京子
プロフィール
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)沖縄本島及びその周辺離島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍の間で行われた激戦。
4月1日、沖縄本島中部に上陸したアメリカ軍は、島を南北に分断。迎撃のため、日本軍は南部撤退による持久戦を展開。その結果、沖縄県民を巻き込む激しい地上戦となる。6月23日、日本軍司令官・参謀長らの自決により組織的戦闘は終結。この戦争での沖縄県民の死者は12万2278人、そのうちの9万4000人は、一般の住民であった。
戦争の中継ぎ世代として
映画「島守の塔」製作委員会委員長
嘉数 昇明
沖縄戦を体験した方々も残り少なくなってきた。私は昭和17年生まれで、2歳のときに大分へ疎開した。海を渡るわけで、いつ潜水艦に攻撃されるか分からない状態。行くも地獄、残るも地獄だった。島田さんや荒井さんは、こうした地へ本土から来られた。軍からの指令や要求を受け、学徒の名簿を軍に提出した際、島田さんは煩悶したのではないか。県政の責任者として「鉄の暴風」と形容される沖縄戦の真っ只中で、県民の命を救うため懸命に努力された島田さん、荒井さん、県庁職員の姿から、今に通じる公職にある人の生きざまを問うているのではないか。沖縄、兵庫、栃木の地元メディアを中心にスクラム組んだ映画製作の意義は大きく、地域に根差した目線であるからこそ、説得力も生まれると思う。ぜひ、たくさんの方にご覧いただきたい。戦争を知っている世代と知らない世代の中継ぎ世代として、そう強く思います。
地上戦があった沖縄を舞台に、
それぞれの生きる姿を描く
映画「島守の塔」監督
五十嵐 匠
日本が総力戦へと突っ込んでいった沖縄戦末期、本土より派遣された2人の内務官僚がいた。兵庫県出身の知事・島田叡氏と栃木県出身の警察部長・荒井退造氏である。
学生野球の名プレーヤーとしてならした島田氏は、戦中最後の沖縄県知事として沖縄に赴任する。度重なる軍の命令に応えるべく内務官僚としての職務を全うしようとする。しかし、戦禍が激しくなるにつれ、自分が県政のトップとして軍の論理を優先し、住民保護とは相反する戦意高揚へと向かわせていることに苦悩する。そして多くの住民の犠牲を目の当たりにした島田氏は「県民の命を守ることこそが自らの使命である」と決意する。警察部長の荒井氏もまた島田氏と行動を共にし、職務を超え県民の命を守ろうと努力する。実は、沖縄戦で2人は、それぞれ重い十字架を背負っていた。島田知事が着任する前、荒井氏は沖縄を離れていた前知事の代わりに県民の疎開を必死に推し進めていた。その矢先、本土に向かっていた学童疎開船「対馬丸」を米軍の攻撃に遭わせてしまったのだ。そのため、数多くの子供達が犠牲となった。その船には自分が疎開をすすめた部下の家族も乗りあわせていたのである。島田氏は県政の責任者として軍の命令を受けて鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊として多くの青少年を戦場へと向かわせていた。2人はそんな十字架を背負いながらも、戦争末期、戦禍が激しくなる中、必死に県民の疎開に尽力し多くの沖縄県民を救っていった。
一億総玉砕が叫ばれる中、敗走しながらも、島田氏は叫んだ。「命どぅ宝、生き抜け!」と。
映画「島守の塔」は、第二次世界大戦の末期、長期にわたる日本国内唯一の地上戦があった沖縄を舞台に、軍の圧力に屈しながらも苦悩し県民の命を守り抜こうとした島田氏と荒井氏、そして沖縄戦で戦火に翻弄されながらも必死に生きる沖縄県民、それぞれの生きる姿を描く映画とする。