命を懸けた二人の島守と沖縄の人々の物語
戦後75年企画映画 島守の塔
- 萩原聖人
- 村上淳
- 吉岡里帆
- 監督 五十嵐匠
- 脚本 柏田道夫・五十嵐匠
©︎ 2020 映画「島守の塔」製作委員会
戦後75年
次世代に語り継ぎたい「島守」
新元号が令和に変わり、昭和、平成、
令和と時が進んでいます。
第2次世界大戦では、日本における唯一の地上戦「沖縄戦」をはじめ、
長崎、広島での原爆投下、東京や各地方都市においての空爆で300万人以上もの尊い命を失いました。
昭和、平成の時代を歩んでこられた上皇陛下は、天皇として最後となった平成30年12月の誕生日の記者会見で
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と涙で声を震わせて平成を振り返り、
昭和の大戦を踏まえた平和への思い、そして沖縄がたどった苦難の歴史についても言及されました。
長期の地上戦が決行された激戦地沖縄の摩文仁の丘。ここは軍事召集で沖縄及び南方で亡くなった方の慰霊碑が立っています。
この場所は、沖縄の心「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)と訴え消息を断った、当時の沖縄県知事・島田叡(兵庫県出身)と
沖縄県警察部長・荒井退造(栃木県出身)の終焉の地でもあります。
摩文仁の丘の中央には、沖縄県職員の戦没者を慰霊する「島守(しまもり)の塔」があり、その奥には、島田と荒井の連名の
「終焉の地」の碑があります。隣には、栃木県の慰霊塔「栃木の塔」その背中合わせに兵庫県の慰霊塔「のじぎくの塔」が立っています。
これらの3つの塔の配置は、「生きることの尊さ」を後世に伝えてほしいと、この地で生涯を閉じた島田と荒井の信念を継承し、
3県の慰霊塔が寄り沿って立っています。
沖縄戦では、家族や友人、そして官僚や学徒兵などそれぞれの立場での隠されたドラマが多くあったことでしょう。映画「島守の塔」は
第2次世界大戦末期、長期の地上戦が決行された地沖縄を舞台に、県民の命を必死に守る戦場の知事と1人の警察部長の
それぞれの苦悩や葛藤などの生き様を通して「人間の命の尊さ」を描く映画を企画しました。
戦後75年の節目の年に、「命(ぬち)どぅ宝」の言葉が、戦争の記憶をいつまでも風化させず「人間としての命の尊さ」を
発信できるものと確信しています。
また、主な登場人物の出身地(沖縄県、兵庫県、栃木県)の地方新聞社が連携を図り、単にこの映画製作の支援・協力をするだけで
なく、3県のトライアングルによる「平和交流事業」の基盤を構築し、3県のみならず全国のメディアに呼びかけ、
大きな平和事業に発展させていきます。
過酷な爪痕が残る沖縄戦から「命の尊さと平和」を発信するのは、昭和、平成、令和と「平和」を伝えてきた新聞社の使命でもあり、
令和を生きる次世代にしっかりと伝え継承を促せることができる映画事業にいたします。
2020年は「戦後75年」の年にもあたり、平成と同様に「平和」を受け継ぐ令和になってもらいたいと切に願います。
CASTキャスト
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島田叡役
萩原 聖人
プロフィール
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荒井退造役
村上 淳
プロフィール
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比嘉凛役
吉岡 里帆
プロフィール
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)沖縄本島及びその周辺離島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍の間で行われた激戦。
4月1日、沖縄本島中部に上陸したアメリカ軍は、島を南北に分断。迎撃のため、日本軍は南部撤退による持久戦を展開。その結果、沖縄県民を巻き込む激しい地上戦となる。6月23日、日本軍司令官・参謀長らの自決により組織的戦闘は終結。この戦争での沖縄県民の死者は12万2278人、そのうちの9万4000人は、一般の住民であった。

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一九四一年昭和十六年
- 12月ハワイ真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦。
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一九四二年昭和十七年
- 6月ミッドウェー海戦
- 8月ガダルカナル島の戦い
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一九四三年昭和十八年
- 5月アッツ島玉砕
- 7月荒井退造警察部長、福井県官房長から沖縄県に着任。
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一九四四年昭和十九年
- 7月7日緊急閣議で南西諸島の老幼婦女子・学童の本土(八万人)、
台湾(二万人)への疎開決定。県政いよいよ「戦場行政」に入る。 - 8月22日学童疎開船「対馬丸」、鹿児島県悪石島沖で撃沈。
(学童七七六人を含む一、四八四人が遭難) - 10月10日「十・十空襲」米機動部隊、早朝から五波にわたり南西諸島大空襲。
那覇市の約九〇%が灰になり、一万二、〇〇〇余戸罹災、
一、四三六人が死傷。
- 7月7日緊急閣議で南西諸島の老幼婦女子・学童の本土(八万人)、
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一九四五年昭和二十年
- 1月11日大阪府内政部長・島田叡、沖縄縣知事への内務省内示を即断即決で
敢然と拝命。 - 中旬島田、友人に「断れば卑怯者、沖縄も日本の一県である。
おれは死にとうないから、誰かに行って死ねとはよう言わん」と、
その心境を漏らす。 - 1月31日島田知事、トランク二つさげて単身赴任。執務開始。
- 2月7日県、戦場行政への大機構改革。疎開と食料確保に専念。
- 2月27日島田知事、米軍の制海・制空圏の危険を顧みず、
自ら台湾米移入交渉のため、急ぎ台湾総督府へ飛ぶ。 - 3月中旬島田知事が交渉した台湾米三、〇〇〇石、那覇港に到着。
大部を陸揚げ後、名護港に回航。 - 3月26日米軍、慶良間列島に上陸。住民約七〇〇人が集団強制死。
- 4月1日米軍、本島中部西海岸読谷~北谷間に上陸。北・中飛行場を占領。
本島を南北に分断し、国頭と南部へ進撃開始。 - 4月27日敵前緊急市町村長・警察署長合同会議を県庁・警察部壕で開催。
南下する避難民の受け入れを協議する一方、後方指導挺身隊や
十八市町村への分遣隊を編成。 - 5月中旬島田知事、軍の首里放棄説に「県民被害が大きくなる」と反対、
牛島司令官に申し入れ。 - 5月22日第三十二軍指令部、首里を放棄し、南部撤退を決定。
- 5月25日荒井警察部長、内務省に「六〇万県民只暗黒ナル壕内ニテ生ク…」
と現状報告の打電。 - 〜
- 6月5日島田知事以下県庁・警察部職員、雨中泥まみれの中、南部へ撤退。
- 6月6日海軍、沖根の大田司令官、島田と荒井の意を体し、
不朽の電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」を打電。 - 6月7日島田知事、轟の壕にて県庁と警察警備隊を解散。六十八年に亘る県と
警察部の歴史に幕。ここに沖縄県消滅。随行した県・警察部職員に、
「今後は自重自愛するように」【「生きろ」】というメッセージを伝達。 - 6月16日島田知事、轟の壕から摩文仁の軍指令部壕へ、
その後、軍医部壕へ入る。秘書官、警護官と別れる。 - 6月26日島田知事・荒井警察部長、軍医部壕を出る。以後、公式の消息は不明。
島田知事の覚悟
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね。沖縄の人が
どれだけ死んでいるか…。僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、
後にも先にもいないだろうなあ…。幾多県民を死なせた地方長官もまた、
その責めを負わねばならない…。」と明言。
(※毎日新聞・野村支局長との6月19日のやりとりから)
- 1月11日大阪府内政部長・島田叡、沖縄縣知事への内務省内示を即断即決で
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一九五一年昭和二十六年
- 6月25日島田知事、荒井警察部長をはじめ、県民の安全確保に挺身した
戦没県職員四六九柱を「島守の塔」に合祀。
- 6月25日島田知事、荒井警察部長をはじめ、県民の安全確保に挺身した
戦争の中継ぎ世代として
映画「島守の塔」製作委員会委員長
嘉数 昇明
沖縄戦を体験した方々も残り少なくなってきた。私は昭和17年生まれで、2歳のときに大分へ疎開した。海を渡るわけで、いつ潜水艦に攻撃されるか分からない状態。行くも地獄、残るも地獄だった。島田さんや荒井さんは、こうした地へ本土から来られた。軍からの指令や要求を受け、学徒の名簿を軍に提出した際、島田さんは煩悶したのではないか。県政の責任者として「鉄の暴風」と形容される沖縄戦の真っ只中で、県民の命を救うため懸命に努力された島田さん、荒井さん、県庁職員の姿から、今に通じる公職にある人の生きざまを問うているのではないか。沖縄、兵庫、栃木の地元メディアを中心にスクラム組んだ映画製作の意義は大きく、地域に根差した目線であるからこそ、説得力も生まれると思う。ぜひ、たくさんの方にご覧いただきたい。戦争を知っている世代と知らない世代の中継ぎ世代として、そう強く思います。
地上戦があった沖縄を舞台に、
それぞれの生きる姿を描く
映画「島守の塔」監督
五十嵐 匠
日本が総力戦へと突っ込んでいった沖縄戦末期、本土より派遣された2人の内務官僚がいた。兵庫県出身の知事・島田叡氏と栃木県出身の警察部長・荒井退造氏である。
学生野球の名プレーヤーとしてならした島田氏は、戦中最後の沖縄県知事として沖縄に赴任する。度重なる軍の命令に応えるべく内務官僚としての職務を全うしようとする。しかし、戦禍が激しくなるにつれ、自分が県政のトップとして軍の論理を優先し、住民保護とは相反する戦意高揚へと向かわせていることに苦悩する。そして多くの住民の犠牲を目の当たりにした島田氏は「県民の命を守ることこそが自らの使命である」と決意する。警察部長の荒井氏もまた島田氏と行動を共にし、職務を超え県民の命を守ろうと努力する。実は、沖縄戦で2人は、それぞれ重い十字架を背負っていた。島田知事が着任する前、荒井氏は沖縄を離れていた前知事の代わりに県民の疎開を必死に推し進めていた。その矢先、本土に向かっていた学童疎開船「対馬丸」を米軍の攻撃に遭わせてしまったのだ。そのため、数多くの子供達が犠牲となった。その船には自分が疎開をすすめた部下の家族も乗りあわせていたのである。島田氏は県政の責任者として軍の命令を受けて鉄血勤皇隊やひめゆり学徒隊として多くの青少年を戦場へと向かわせていた。2人はそんな十字架を背負いながらも、戦争末期、戦禍が激しくなる中、必死に県民の疎開に尽力し多くの沖縄県民を救っていった。
一億総玉砕が叫ばれる中、敗走しながらも、島田氏は叫んだ。「命どぅ宝、生き抜け!」と。
映画「島守の塔」は、第二次世界大戦の末期、長期にわたる日本国内唯一の地上戦があった沖縄を舞台に、軍の圧力に屈しながらも苦悩し県民の命を守り抜こうとした島田氏と荒井氏、そして沖縄戦で戦火に翻弄されながらも必死に生きる沖縄県民、それぞれの生きる姿を描く映画とする。