MENU

第27代沖縄県知事

島田 叡しまだ あきら

1901年兵庫県神戸市生まれ。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年に東京帝国大学法学部へ入学。東大卒業後、1925年に内務省に入省。主に警察畑を歩み、1945年1月、沖縄への米軍上陸が必至とみられている状況の中、辞令を受け、県知事として着任する。沖縄戦の混乱により県庁が解散するまでの約5ヶ月間、疎開の促進と食糧確保等、沖縄県民の生命保護に尽力。戦争が激化し、摩文仁の丘に追い詰められた際、県庁組織の解散を命じ、ともに死ぬという部下に「命どぅ宝、生きぬけ」と伝え、逃した。最期は荒井警察部長とともに壕に留まり、後に摩文仁の森にて消息を断つ。今日まで、その遺体は発見されていない。享年43歳。

兵庫と沖縄の深い絆

島田叡の母校である兵庫高校には卒業生である島田叡を後世まで顕彰するため建てられた碑がある。この「合掌の碑」は、遠く沖縄の方向を向いており、合掌をしているデザインとなっている。兵庫・沖縄友愛グラウンドに建てられた島田叡顕彰碑と向き合っている。また沖縄、兵庫両県は1972年、沖縄の本土復帰の年に友愛提携を結び、兵庫県は1975年に「沖縄・兵庫友愛スポーツセンター」を寄贈。現在、プロ野球の巨人がキャンプ中にサブグラウンドとしている場所は「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と命名されている。

合掌の碑(兵庫)
島田叡氏顕彰碑(沖縄)

野球人・島田叡の球魂

島田叡は、高校、大学で野球部に所属した。フェアプレーに徹した名選手だった。野球をこよなく愛し、すべてのプレーと部員に全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われる。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られた。当時、野球部主将としてチームを牽引し、頭とスピードでやる島田式科学野球を実践。常に本塁〝生還”を目指した。

旧制三高時代の島田叡(前列右から二番目)